数ラバヤのKayoon通りにあるシナゴークに詰めかけた。ガザ地区をめぐったイスラエルとパレスチナの紛争によってすでに門が閉じられていたが、ここはそんなに危険なんだろうか?門を叩くだけでなく、中に入って見てみよう。
花のモチーフのある古い18世紀末の建物、ラタンの椅子、彫刻されたチーク材のアルタール、ヘブライ語が書かれた壁飾り、金属の儀式用道具…。この国で生まれ育った文明の証人たちである。
アメリカやオーストラリア、東メディテラニアに行かずとも、エキゾチックなシナゴークを見に誰もがこの場所に来ることができる。写真撮影をする観光客の絶えないジャカルタのパサール・バルにあるシーク教の寺院の様に、遠くシンガポールやインドまで行く必要はない。
シナゴークの中に入ったら我々の信仰心が揺らぐのではないか、なんて心配する必要はない。例えばミナハサの祖先崇拝の遺物であるメンヒルを見学する人達だってそうだ。
中央の部屋には15ほどの籐椅子がミンバルに向かって並んでいる。ミンバルは大きいので一度に3人が並ぶことができる。ミンバルは50センチの2本のろうそくに挟まれたアルタールの向かいにある。そして、そのミンバルとアルタールの間には、もう一か所、一人用のミンバルがある。アルタールの右には背の高い椅子があり、このシナゴークの管理人であるユスラン・サンバーさんが「これは割礼をする子供用の椅子だ」と教えてくれた。
しかし、このシナゴークはもはや礼拝所としての機能を完全にははたしていない。集団礼拝が行われないからだ。見えている椅子の列は男性用のみで、隣のホールにあるはずの女性用の椅子はすでにもうなくなっている。現在そのホールには会議用の長い机と椅子の列があるだけだ。そして2本のながいろうそくとアルタールにあるはずの金の飾りももうない。
儀式用の道具もチークのガラス戸の中で埃をかぶっている。というのも、その道具を使用するユダヤ教のラビは50年も前からいない。Kayoon通り4―5のBeth Hashemシナゴークはもうながいこと外国人の観光名所となっている。「彼らはイスラム教徒が大多数を占めるこの国でシナゴークが存在する事実を確かめに来るだけさ」とユスランさんは言う。
それも、ここはインドネシアで残っている唯一のユダヤ教の礼拝所だからだ。イスラエルが建国するずっと前の1913年に建てられた。インドネシアだってまだ統一されていない時代。
ユダヤ教の信者たちはオランダ人やインド、東メディテラニアの商人と共にこの国へやって来たと考えられる。数世紀の間インドネシアの各地でユダヤ教のLogeという集会所をもつようになる。その他にも彼らはいくつかの建築物を残しており、現在はマジャパヒト・ホテルと名前を変えたオランダ人ユダヤ教徒のルーカス・マーティンが建てたOranjeホテルがそうだ。
彼らは前世紀の初めにJosepoh Erza Isaakが中心となってKayoonに一軒の家を買ったこともあった。しかし、インドネシアが独立し、ヨーロッパ人と共にユダヤ教徒たちも去って行った。
スラバヤには十数のユダヤ教徒の家族が住んでいる。40年ほど前から集団礼拝をすることはできなくなっているが、そのうちの3家族が今でも土曜日やYom Kippur、Rosh Hashanahなどの日にこの場所に来て祈りをささげていく。世界の人々の聖地をめぐって最大のユダヤ教徒を有するイスラエルがパレスチナと争っていることが彼らにとって危機となっている。
「現在このシナゴークは、スラバヤにユダヤ教徒がいた事実を知る証人として、歴史的遺産となっています。」とイスラム教徒であるユスランさんは言う。ちょうどジャカルタのシーク教寺院や、ミナハサの祖先崇拝の石像の様に。
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